働くことの意味 - 人間の基本的欲求である

(1)人間の基本的欲求

 

 人間は必ず役割をもっており、それぞれの役割をきっちり果たしていくことが働くことである、ということは既に述べたとおりである。

 働くとは、ハタ(自分の周囲の人、もの、事)をラク(楽、幸福)にすることである、と定義した。働くという字は、人が動くと書く。ただ動くだけなら文字通り動物と同じであるが、働くという場合、人間らしく動いてはじめて「働く」と言えるのである。

 人間は自分一人では生きられない。「じんかん」と書いて人間と呼ぶのであって、この「じんかん」は、基本的には「社会」を表しており、人間が社会的存在であることを意味している。人間は、人間(社会)との関係において、はじめて人間であり得るのである。この意味において、人間らしく動いてハタをラクにすることは、本来、極めて自然で基本的な欲求であると言えよう。


 人間は基本的に愛されたい、褒められたい、認められたい、役に立ちたい、自由になりたいという5つの願いをもっていると言われているが、人の役に立ちたい、人から認められたい、褒められたい、といった願いは、自分の働きが人の役に立ち、認められ、褒められたいという願いに他ならない。しかしながら、こうした人間の基本的な欲求であるはずの「働く」ということが、なにゆえに、人によっては苦痛となったり、喜び、生きがいとなったりするのであろうか。しかも、働くことが苦痛、苦労であり、辛いものという人、そこまでいかないまでも、働くことに意義が見出せず、何となく惰性で働いている人の何と多いことか。


 今日、「働く」ことについて代表的な考え方が3つあると、鎌田 勝氏はその著書「人材の育て方」の中で述べておられる。

 第1の考え方は、働くことは苦痛であり、苦労であり、必要悪である、という考え方で、労働と呼ぶ。英語ではlaborで、その語源はslave、奴隷である。「働く」ことは奴隷のすることだと考えられていた。したがって、なるべくラクに働きたい、なるべく短時間がいい、苦痛の代償に高賃金を、苦痛の回復にレクリエーション(人間性の再創造)が必要、とする考え方である。

 第2の考え方は、働くことは喜びであり、楽しみである、とする考え方。労働ではなく、朗働と呼んでみたらどうか、というもので、英語ではwork、作品の意味である。自分で作ったものを作品と思うようになったら、この段階に進んでいるといえる。職人と言われる人はこの世界、自主管理小集団活動はこのレベルと言える。多くの働く人は、この1と2の中間にあるのではないかと考えられる。

 第3の考え方は、働くことは、使命であり、生きがいである、とする考え方である。天職または聖職と呼び、英語ではlife-workである。職業のことを英語でcalling、ドイツ語ではBelufというのはこの意味である。苦楽を超越して、社会のために尽くす、報いられることを期待せず、奉仕に至福を感ずる境地である、というものである。

 以上が、鎌田氏の説の骨子である。


 確かに昔は、「女工哀史」や「ああ、野麦峠」などにみられるように、人間性を無視した苦役とも言えるような時代もあったが、もともと日本には、働くことを「労働」という言い方はしなかった。戦後、いわゆる欧米の「労働」という考え方が支配的になり、そのような考え方をする人が進歩的で、インテリであるという風潮が生まれ、その人たちが戦後の労働組合を作り、労働運動を指導することによって、働くことが、苦痛を伴う力作であるという考え方を浸透させた。

 しかしながら、今日の日本社会においては、所得水準も向上、平準化し、かつてのように「生活のためだけに働く」といった人はほとんどいないといってもよい。それにもかかわらず、働くことを苦痛であるという先入観をもっている人も多い。「労働」という文字そのものからくるイメージのせいかもしれない。


 いずれにせよ、働くことを、生活のために仕方なく、義務感でするか、やりがい、生きがいをもってするかは、それぞれの時代や立場、境遇、仕事の種類・中味などによって異なるが、基本的には人間観や仕事観によるものといえる