社会観・世界観

「競争」から「共創」へ

 自然を一つの有機システムとみなし、人間のいのちも地球のいのちも、さまざまなシステムのつながりによって創り出されるはたらきである、と考える。

 いのちは秩序を創り出すはたらきであって、ものではない。ものは存在を意味し、はたらき、機能を意味しない。ところが近代科学はすべて対象をものとしてとらえ、それを個体、細胞、分子、原子というように細分化し、分析して構造を解明しようとする。したがって、いのちをもものとしてとらえ、心と分離した。病気になったら肉体そのものの悪い部分を取り除くことに主眼を置く。そこでは心のはたらきは捨象される。このような発想が、近代文明、現代社会をリードしてきた。つまり、部分部分の存在を重視し、つながりを軽視してきたのである。部分部分の存在を重視するということは、自分の存在、会社の存在、組織の存在、国の存在、ものの存在に重点が置かれ、そこでは、「どれだけ長く生きるか」が最重要課題となり、そのためにはどれだけ利益をあげるかが最優先されることになる。そしてその利益をあげるためには他を犠牲にしようが、どんな手段を取ろうが許される、という考え方、生き方である。そのような考え方、生き方が周りの秩序の破壊につながっているのである。


 PIではそのような考え方はとらない。役割、はたらきを重視するから「どれだけ長く生きるか」というよりは「どう生きるか」が最重要課題となる。しかも「どう生きるか」を決める基本は、人間社会や自然界の秩序維持への貢献やはたらきとなる。


 石川光男基督教大学教授は、その著書『自然に学ぶ共創思想』のなかで、「共存」「共生」という言葉がある。「共存」とは、人間同士、民族同士、国同士ともに相手の存在を認めて、意見や主張が異なっても、お互いを侵略せず仲良くしていこうというものである。「共生」は、人間以外のものも含めて、仲良くしていこうということで、「共存」よりも一歩進んだ考え方ともいえるが、ともに「存在」中心の価値観から脱していない。これからは、人間や生物がお互いに邪魔しないで存在すること以上に、さまざまなシステムがいろいろな要素の相互依存性を重視して、秩序を創り出すはたらきを高める生き方を目指さなければならない、という意味で「共生」ではなく「共創」ということをおっしゃっている。


 また最近では、「勝ち組」「負け組」といって、人や企業等を二つに分けて評価する傾向がある。「勝ち組」に入ることが成功の証であり、幸福の条件である、というのである。一握りの「勝ち組」に入るためには他者との競争に勝たなければならない。それらの人や企業にとっては、人生のすべて、企業活動のすべての局面において、競争が主要な動機となる。幼稚園選びから、学校選び、仕事選び、恋愛、結婚、企業活動における意思決定、決断に至るまで、すべてが競争というわけである。その競争に勝つためには、他を犠牲にしたり、損害を与えることになっても止むなしとする考え、行動といった行き過ぎた自由競争の結果、ゆがんだ格差社会を生んだともいえる。

 「競争がないと、進歩がない」という議論もあるが、競争が激しくなると、自分の利益が優先され、視野が狭くなり、判断も短期的になる。結果的に仕事の質が低下し、創造性をも奪ってしまい、長い目で見ると進歩につながらないことも多い。


 そもそも「競争」(competition)という言葉の語源は、「共に栄える」という意味だそうだ。ともに栄えるために相互に競うことは、能力向上、創造性向上という意味で必要ではあるが、必要以上の競争いは奪い合いを、弱肉強食、優勝劣敗の世界を現出させ、破壊へと導き、PIとは相いれない。


 PIでは、お互いがそれぞれの役割を果たしながら、競争の本来の意味である「共に栄える」、秩序ある社会を目指すのである。そして石川教授は、それを”「存在」の人生から「共創」の人生へ”、”「存在」の文明から「共創」の文明へ”と進んでいくことの必要性を説いておられるが、PIでは、さらに、”「競争」から「共創」へ”を加えたい。